月に叢雲花に嵐

1日1枚フォトダイアリー

悪党と呼ばれた男

上野の西郷隆盛靖国神社大村益次郎

そして、皇居外苑楠木正成を東京三大銅像と言うそうだ。

20240810002101

OM-1 Mark II + CM-AEF-MFT + APO 70-300mm F4-5.6 DG MACRO(70mm) SS1/1000 F5.6 ISO200

 

さて大楠公楠木正成である。

後醍醐天皇に従い鎌倉幕府打倒の兵をあげ、

赤坂城、千早城で幕府の大軍を寡兵で迎え撃ち

そのすきに叛いた足利、新田が六波羅探題と鎌倉を攻略し

幕府は滅亡する。

のちに足利尊氏後醍醐天皇に叛くと

再三にわたり献策するも用いられず、

最後は死ぬとわかったうえで

湊川に赴き敗死した。

 

死ぬ間際、弟に死んだらどの世界に転生したいか問い、

弟は七たびこの世界に生まれ変わって国に報いたいと答え、

私もそう思うと笑って刺し違えたという。

享年43歳。

 

その後、足利幕府の時代には朝敵扱いだったが

明治になると名誉が回復された。

 

悪党とは…743年の墾田永年私財の法以降、

有力者が私有地である荘園を開拓するのだが、

開拓した荘園は賄賂として有力貴族や寺社に寄進し、

寄進の見返りとして徴税や警察権の代行を行う権利を得た。

荘園で力をつけた有力者は武士となり、

鎌倉時代になると、武士たちは地頭にジョブチェンジしたが、

しばしば荘園領主と敵対した。

鎌倉幕府が機能していたころは訴訟により解決がはかられたが

末期になると力を背景に荘園領主に従わない地頭、

さらにクビになったのに居座る武士があらわれ、

彼らのことを悪党と言った。

 

この銅像は明治33年(1900年)、別子銅山開坑200周年事業として

住友財閥により建造され、明治天皇に献上された。

 

1945年、日本が戦争に敗北すると

GHQは第一生命館に本部を置いた。

ここから皇居を結ぶ線上にこの像は立っている。

占領軍に対しただ1騎立ちはだかった大楠公だが

その顔は宮城の方を向いていたので、敵に後ろを見せていた。

 

後醍醐天皇は「玉骨は縦令南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」と言って亡くなり、

伍子胥は「吾が眼を抉り、呉の 東門の上に懸けよ、以て越の冦の入りて呉を滅ぼすを観ん」と叫んで死に、

徳川家康は西を向いて立ったまま埋葬されたというが、

銅像とは言え、宮城の方向ではなく、

四方ににらみをきかせてこそ武人の本懐だったのではなかろうか。