月に叢雲花に嵐

1日1枚フォトダイアリー

万葉インフルエンサー

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。

淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。  

たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、

高き、卑しき、人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、

これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。

あるいは去年焼けて今年作れり。

あるいは大家滅びて小家となる。

住む人もこれに同じ。

所も変はらず、人も多かれど、

いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。

朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける…

方丈記

20240430011459

OLYMPUS OM-D E-M5 MarkII + LUMIX G 14mm / F2.5 II ASPH. SS8 F2.5 ISO200

 

前回の写真…特にドラマチックトーンをかけたものは

堤防が赤く染まっていたが

通り過ぎた自動車のテールランプのせいである。

あれによって桜が赤く染まるのを狙ったのだが、

なくてもあまり変わらないような…

露光時間が2倍になっているぶん、

淀みに浮かぶうたかたの長さは長くなっている。

 

さて真間川の分岐点あたりに

真間山と言う小高い丘があり

昔はその麓まで海だったのだが、

この真間に入り江に手児奈と言う美しい娘が住んでいた。

あまりにも美しかったので権力者が何人も求婚し、相争ったが、

私のために争うのはやめてと、海に身を投げ、

翌朝遺体で見つかったと言う悲劇的伝説があるアルよ。(呪泉郷ガイド風)

なお真間川に落ちても絶世の美女にはならないので念のため。

 

…これ絶対、断られた権力者の誰かの仕業だろ…

 

この話は有名らしく万葉集に何首か出てくる。

 

過勝鹿真間娘子墓時、山部宿禰赤人作歌一首〔并短歌〕

〔東俗語云、可豆思賀能麻末乃弖胡〕

古昔有家武人之倭文幡乃帯解替而

廬屋立妻問為家武勝壮鹿乃真間之手兒名之奥槨乎此間登波聞杼

木葉哉茂有良武松之根也

遠久寸言耳毛名耳母吾者不所忘

反歌

吾毛見都人尒毛将告勝壮鹿之間〻能手兒名之奥津城處

…読めるか!

 

勝鹿の真間娘子の墓を過ぎし時に、山部宿禰赤人の作れる歌一首〔并せて短歌〕

〔東の俗語に云はく、かづしかのままのてご〕

古にありけむ人の倭文幡の帯解きかへて

伏屋立て妻問ひしけむ葛飾の真間の手児名が奥つ城をこことは聞けど

真木の葉や茂りたるらむ松の根や

遠く久しき言のみも名のみもわれは忘らえなくに

反歌

われも見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名が奥つ城処

 

反歌の部分だけ現代風に訳すと

うぇーい!俺も手児奈の墓を見に来たぜ!拡散しちゃうぜー

 

…迷惑系インフルエンサーだった…

 

おそらく高橋虫麻呂が割と詳しく手児奈を紹介しているので

それを聞いて見に行ってきたようだ。

 

今とやってることはあまり変わらない…

もっとも交通機関などなかった時代の話だが。

山部赤人聖武天皇の…高橋虫麻呂藤原四子の頃の人なので

世代が1世代ほど違う。

www.city.ichikawa.lg.jp

さて…この話…いつ頃の話しだろうか。

このあたりが海だったのは縄文海進の頃なので

縄文時代と思われる。

後に平安海進がおき、更級日記にも出てくるが

言うまでもなく万葉集奈良時代の歌集である。

ずっと昔…万葉仮名はおろか文字が無かった時代だが

口伝で伝わっていたのだろうか。

昔、鹿がいっぱいいたのか、葛飾は勝壮鹿だった。

今では東京の植民地でキョンもいない。

www.tokyo-np.co.jp

 

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